『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』はある点において、ゾンビアポカリプスの世界に似ている
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| タイトル | 映画ちいかわ 人魚の島のひみつ |
| 監督 | 及川 啓 |
| 原作・脚本 | ナガノ |
| 公開日 | 2026年7月24日 |
司法なき島
この映画と『ウォーキング・デッド』(ゾンビアポカリプスによる文明崩壊後の世界を描いたドラマ)は、ある点で共通している。 それはどちらも、司法が機能していない世界を描いている点である。
事件のあらまし
- セイレーンと人魚が海上で遊んでいた。大きく飛び跳ねたセイレーンが、近くで釣りをしていた村人(ヒトハとフタバ)の舟とぶつかる。フタバが死にかける。
- セイレーンは「なんかぶつかったかな〜」という反応をしており、故意ではなかった
- ヒトハは、図鑑の「人魚を食べると永遠の命」を頼りに、セイレーンの仲間である人魚を殺して煮付けにし、フタバに食べさせる。フタバは助かる。
- だが、その代償としてフタバは電池がなければ動けない身体になってしまう。望んでいないのに永遠の命を得てしまったフタバは、自分だけ孤独に生き続ける苦痛を予期し、ヒトハにも人魚の肉を食べさせる。二人は「永遠の命」になる。
- セイレーンは犯人探しのため、島の人を片っ端から襲い食い殺し始める。困った島は、怪しいチラシをばらまいて外部から働き手を呼ぶ。
- その怪しいチラシを見て、ちいかわ達はその島に行くことになる
- ちいかわ達が激辛攻撃でセイレーンを倒す。村人は「とどめを刺せ」と言う。
- ちいかわは、単三電池などの手がかりで二人の秘密に気づく。でも言わない。
- ヒトハとフタバは近くの島へ逃げる。エンドロール後、セイレーンたちがその島に向かって飛び跳ねているような描写がなされる。
- 公式イラスト(二人が檻に入れられて海に沈められている)を見ると、二人の行き先は完全にバレていて、「終身刑」に処せられたのは確実と読める
注目したいのは、どの段階にも「事情を聞き、証拠を整え、罰の上限を決め、執行を監視する」機関が現れないことだ。
誰が悪いか?
セイレーン・ヒトハ・フタバは、いずれも被害者であり加害者でもある。物語側が絶対的な悪人を置いておらず、コイツが一番悪い!と決めつけることは難しい。
- セイレーンは仲間を失った被害者だが、犯人特定前に無関係な島民へ報復した時点でめちゃくちゃ悪質な加害者である
- ヒトハはフタバを助けたかった被害者側の当事者だが、無関係な人魚を計画的に殺した時点でめちゃくちゃ悪質な加害者である
- フタバは初めは意識のない状態で肉を食べさせられた側だが、ヒトハへ肉を与えた時点で共犯関係に入ってしまう
この映画の核は、「誰が一番悪いか」というより、「悪いこと」をしたヤツをどう扱うかの制度がないことだ。
現実の刑法なら刑期があるが……
仮に人魚を自然人とみなせば、日本の刑法ではヒトハには殺人罪とか死体損壊罪あたりが適用されるのだろうか。多くのまともな法治国家であれば、少なくとも次の制度がある。
- 罪を犯した者の動機とかの事情を聞く機会がある
- 罰に一定の上限がある
島にはこれらがない。セイレーンの罰は、一見すると終身刑に似ている。だが法がある世界の終身刑は、建前としては国家が執行し、赦免や再審の余地を残すなど「慎重に」行われる。セイレーンによる「オリに入れてなんかずっとくらいとこ」の刑は、被害者自身が執行する私刑である。
セイレーンの「わかったッ」は、説得されたのではなく犯人探しの終了を意味する
セイレーンの「わかったッ」は、ハチワレへの和解の返事ではなく、「犯人がわかった」の意味に読める。ヒトハとフタバに単三電池の挿入口があるのを見た瞬間、犯人が誰であるか判明したのだ。 そして、恨みを晴らすための私刑がされることになる。結局、セイレーンは最後までヒトハとフタバの動機を知らないまま彼らに永遠の罰を与えることになる。実はセイレーンがきっかけを作ってしまったことを知る由もなく。
ちいかわの沈黙の意味
ちいかわは決定的な証拠を持ち、事件の経緯を把握していながら、告発をしなかったのはなぜか? 告発すれば二人が海の檻へ送られる可能性が高い。あの島で真実を述べる行為は、そのままセイレーンによる私刑を確定させてしまう。トロッコ問題で、レバーを引くこと自体が誰かの運命を確定させてしまう場面に似ている。 司法がある世界なら、告発は「事件を手続きへ預ける」行為になりうる。司法がない世界では、告発は「すでに用意された私刑へ対象を渡す」行為になる。 ちいかわは、自ら引き金を引きたくなかったのだろう。
村人の「とどめを」は、合理に見える私刑である
激辛攻撃でセイレーンがダウンしたあと、村人たちが「とどめ」(処刑)を求める場面があった。これまで無差別に食ってきた脅威を排除することはとても合理的に見える。
しかしこの制裁も、手続きを欠くなら私刑であることには変わりはない。セイレーンはもちろん加害者でもあるが、仲間を殺された被害者でもある。その複雑な経緯を鑑みる場がないとき、残るのは「怖いから消す」という原始的な反応だけになる。
『今日の日はさようなら』の演出
作中で『今日の日はさようなら』という歌が複数回挿入されるが、序盤と終盤ではその歌のもつ意味が異なっている。 序盤では友情に焦点を当てた美しい希望の歌だった。ところが終盤では歌詞の大半はヒトハとフタバに対する皮肉となり、永遠の残酷さを強調する。
まとめ
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、優しさが殺人の動機になり、被害が報復を生み、報復が別の被害を生む連鎖を見せている。 公正さを担保する場所がないとき、人はどこまでも私的な「正義」へ引き戻されるのだ。 かわいいタッチで描くコミカルな物語と『ウォーキング・デッド』は、この点で同じ構造をしているのである。